チャイナペインティングの歴史

 

地中海のコバルトブルーから・・・

13世紀末の中国元の都に滞在したベネティアのマルコ・ポーロが、中国の磁器を初めてヨーロッパに持ち帰ったと言い伝えられています。
当時の中国では文様のない磁器(青磁)が珍重されていましたが、14世紀前半にアラビア商人が染付顔料であるコバルトをペルシャから中国に運び、回教圏の人々が好むアラベスク風の文様を描いた景徳鎮の磁器を特注で大量に焼かせ、中近東に持ち帰り商売しました。
地中海のコバルトブルーで描いたアラベスク文様、これが染付(絵付)の始まりです。
もともと9~10世紀の中近東ではコバルトを顔料にして陶器にアラベスク文様の絵を描いていましたが、景徳鎮の染付技法は墨絵の流れを汲むものといわれています。

アラベスク文様は唐草文様から?
ペルシャ等の西域から伝わった海・波・水にちなむアラベスク文様が、中国で一定のリズムでカーブを繰り返す蔓に花や葉を配した西藩蓮文様に発展しました。
日本では唐草文様といいます。

ペルシャからシルクロードを経て薬師寺に伝わった葡萄唐草文様も、同じ流れの文様です。

錬金術師が製法を再発見から?
中国の陶磁器技術は朝鮮半島や日本にも伝来し、陶工や絵付師をはじめ多くの工芸家達が海を渡って古代の日本にも住み着きました。
そして江戸時代、九州の鍋島藩有田で1616年に磁器の焼成に成功したと伝えられています。
伊万里港から輸送されたので、伊万里焼ともいいます。
17世紀前半の大航海時代に、オランダ東インド会社が中国や日本の美しい磁器をヨーロッパに輸入しました。
その妖しいまでの透明感あふれる白い肌は王侯貴族たちの心を魅了し大流行しました。
東洋から買い集めるだけでは満足せず、ヨーロッパ各国では中国磁器や伊万里焼の研究と試行錯誤が繰り返されました。
ザクセン王アウグストの命令により、若い錬金術師ベットガーがいろんな実験のすえ近くのアウエから取り寄せたカオリンを原料にして、1709年にヨーロッパで初めて白磁の焼成に成功しました。
そして1710年マイセンのアルブレヒト城内にヨーロッパ初の硬質磁器製造所が建設されたのが、有名なマイセン窯の始まりです。秘密とされたマイセンの技術もまたたく間にドイツからヨーロッパ全土に広まりました。